PTコピーライターの食卓

二子玉川在住、個人事業主のテーブルトーク

3・11の時はどうしてた?

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2011年3月11日から8年――最初の1年は「まだ1年か」と思ったものですが、2年、3年ぐらいは瞬く間。時間はさらにスピードを上げ、5年、6年、そしてもう8年ですね。その後の経過も含め、人の数だけストーリーがあります。自分自身も、生活環境がずい分と変わりました。

 

当時、僕は通信社の記者で株式市場をカバーしてました。その日は早番のため朝7時過ぎにはオフィスにいました。いつもと変わりのない、平和な1日が終わろうとしていました。株式市場は午後3時に取引を終えるので、その後は仲間と近くのパブで軽く1杯やって家路につこう、と考えていました。


大引けのレポートを書き始めた時、大きなめまい様のような感覚に襲われました。それが大震災になろうとは!株価のチャートを見ると、建設セクターの指数が急騰していました。地震発生の直後から大規模災害を察知した投資家が、すでに復興による株価の上昇を見越した動きでした。その後は地震に揺られながらレポートを書き、配信。


何か別に記事を書いて発信しなきゃ。でも、それどころじゃありません。オフィスは、大きな揺れでロッカーの扉がバタバタと開閉し、まるでホラー映画。窓の外はゴーゴーと何かが鳴っていました。それが何の音だったのか、いまだにわかりません。高層階だったので、遠くの曇り空の下、黒煙が立ち上っているのが見えました。


そしていよいよ揺れはひどくなってきました。高層ビルの真ん中辺りがポキッ折れ、自分たちは真っ逆さまに地上に落下するのではないかと思い、その時に初めて死を意識しました。


やがて揺れは収まり、自宅が同じ方向の同僚と3人で帰ることになりました。地下鉄は運休のため、徒歩です。高層階から地上まで下り階段ですでに体力を消耗しましたが、もう後には戻れません。僕たちは246号線から三軒茶屋でまず渋谷を目指します。沿道の和菓子屋さんが、通行人に和菓子を無償で配っていました。

 

それを頬張りながら、渋谷のバスターミナルに到着。見たことのない数の人、人、人。僕たちは次に三軒茶屋から世田谷通りに出ようと、先を急ぎます。歩道は徒歩で家路につく人たちで収まらず、車道を歩く人もいました。途中、靴屋さんに行列を見かけました。歩くために革靴からスニーカーに履き替えようという人たちです。


僕はスーツ姿でもこんなスニーカーを履いて勤務していたので、この点は震災に対応できていました=写真=。


真冬のような寒空の下、普段は歩かない道を仲間と歩きながらいろいろな話をしました。途中、駒澤大学付近の豆腐屋さんの近くで、1人が納豆の自動販売機を発見。世の中はますますマンパワーが不要になっていくな、記事を書くのもアプリの時代になるかもな、などと言っていました。今、まさにそんな世の中になっていますね。


三軒茶屋で休憩し、ビタミンと水分を補給することになりました。ビタミンとは餃子、水分はビールと、説明の必要はありません。そこでも、仕事のこと、家族のこと、これからのキャリアのこと、震災に直接関係のない話もずい分しました。その時に話した内容や彼らの表情はいまだに忘れていませんし、これからも忘れないでしょう。


世田谷通りに出て、それぞれ家族に電話をかけたりして安否を確かめたりします。両親が東北旅行から首都圏に戻る途中で足止めされていると、同行した姉から聞き、僕は安堵のため息をつきました。同僚の1人が被害状況をニュースで仕入れ、週明けからの動きをシミュレーションしながらさらに進んでいきました。


やがて世田谷区内に入り3人が2人に、2人が1人になり、帰り路に話したことを反すうしながら自宅を目指しました。何か、深い暗闇に向かっているような心境だったのを覚えています。そして夜の11時半ごろ、自宅に到着。家人を見て、張り詰めていたものが一気に緩みました。自分の、そして日本の長い1日がようやく終わろうとしていました。

(おわり)